サイコパスの素顔

小説を書いています。映画レビューもしております。

CVI. 「殺す」で溢れかえる街

 

「あいつゼッテェ殺してやる!!」

 

 最近の若者は、すぐキレる。

 いや、最近でなくとも、すぐキレる若者はいる。昔だっていた。

 

 だが昔は、簡単に「殺す」と口に出す若者はそういなかった。

 今は、そうじゃない。何か不満なことがあれば簡単に「殺す」と口に出す。

 

 それはきっと、良いことじゃないだろう。

 それはきっと、良くないことだ。

 

 サイコパスは、街の中で若者の声を聞いた。

 

 聞こえてくる声は、やはり「殺す」ばっか。

 コンビニの駐車場。裏路地の片隅。学校の教室、部室、トイレの中からも。

 怒号を伴った「殺す」、軽い冗談の「殺す」、へらへらしながらの「殺す」、様々な「殺す」が、あちこちから聞こえてくる。

 

 …………。

 そんな街は、きっと良くない場所だ。

 

 まるで相槌のように、「殺す」、「殺す」と口に出す若者。

 それを聞く大人たちも、不快な気持ちを覚えるだけで何もせず。

 次第に街は「殺す」で溢れかえり、小さな子供たちは当たり前のように「殺す」の環境で育っていく。

 

 それはきっと、良くない。

 

 サイコパスは、「殺す」と口にする人間に侮蔑の視線を注いだ。

 

 不愉快で仕方ない。

 虫唾が走る。

 苛立ち、怒りが沸点を通り越し、殺したくなる。

 

 でもそれを、口に出すことはない。

 

 サイコパスは、静かにほくそ笑んだのだ。

 

 …………。

 そうか……そうだよな。

 

 現代の、「殺す」で溢れかえった街。

 そこは、「殺す」の名のもとに治安が悪く、息苦しい。

 でもそれは、生ぬるい安心・安全の証明でもあった。

 

 人は、本当に誰かを殺したいとき、「殺す」など口にしない。

 人の怒り、憎しみが膨らむと、声にならないほど絶大な力が動き出す。それが狂気であり、本当の意味での殺意である。

 だからこそ、簡単に口に出る「殺す」の言葉にはどんな殺意も含まれず、人を殺すこともない。

 

 突発的に爆発した殺意は、言葉を持たないのだ。

 

 簡単に「殺す」と口にする若者は本当の意味での憎しみを抱えてはいない。ましてや、人を殺す覚悟などさらさらない。

 一度も人を殺したことのない、人を殺すことがどんな意味を持つかも分かっていない純粋な人間。それが、現代の若者の実態である。

 

 サイコパスは、そのことを思い出し、胸を撫で下ろした。

 

 むしろ、良いことなのかもしれない。

 若者が「殺す」と口にする街は、確かに不愉快ではある。でもそれは、安全な証拠。そう考えれば、多少の「殺す」も仕方のないことだと看過できる。

 

 殺意の意味を知ってしまった若者が溢れかえるよりはずっといい。

 

 虚勢を張った「殺す」を吐く若者たちは、ずっと可愛いものだ。その瞳には、幾分の狂気も含まれていない。あるのは、粗末な怒り。中身のない、憎しみだけだ。そんな見せかけの「殺す」に、街は安らぎの心を覚える。

 

 口の悪い若者で溢れかえる街。

 そこから聞こえてくる「殺す」の言葉。

 それは、暴力性を言葉で表す平和な街であった。