LXXXII. かわいい子が好き
サイコパスは、今日も仕事だ。
朝起きて、お風呂に入る。朝食を食べる時間はないけど、一杯のコーヒーだけは忘れない。歯を磨いて鏡でチェックして、家を出た。
いつもの電車にいつものドアから乗り込むと、いつもの席に腰を下ろした。誰もが好きな、シートの端っこ。パーソナルスペースを侵害されない最高のポジション。
……あれっ?
座ってしばらくしてから気がついた。今日はなんだかいつもと違う。
こうして毎日同じ電車に乗っていると、見かける顔はいつも同じ。人がうじゃうじゃいる都会と違って、いつもと違うことが周りで起きていればすぐ気がつく。
なんというのか……違和感?
その正体を掴みたく、携帯の画面へと落としていた視線を前に向けた。
すると……
サイコパスは、目の前の女性と目が合った。
即座に逸らす女性の姿。上に向いた大きな瞳が困惑を誘う。戸惑いから自分もすぐ携帯へと視線を戻す。
……ん? なんだ? いまの……。
サイコパスは、向かいに座る女性が気になってしまった。
先ほどから感じていた違和感はおそらく彼女。彼女がこっちを見ていたその気配を感じていたのかもしれない。いや、そうとしか考えられない。
知らない女性に見られていたと思うと、それがどういう意味を表すかは関係なく打ち付ける、鼓動の速さを止めることはできない。音はイヤホンを伝って自分の耳に響き、その響きにより思考は深く沈んでいく。
一度気になりだすと、自分も相手の女性を見ることがままならない。携帯の画面から目は離さずとも、意識はずっと向かいの女性へと。
視界ギリギリに入るところで女性の気配を探りつつ、いろいろと考えてしまう。
もしかして、好意?
サイコパスは、好意を持たれたのではないかと考えた。
こっちを見ていたということは、少なくとも興味があったのだろう。それはつまり……好意……?
サイコパスは、頭の中に広がるバラ色の妄想に囚われてきた。
どうしよう……この後話し掛けられたりしたら。
どうしよう……好きだって言われたら。
どうしよう……付き合ってくださいって告白されたら。
サイコパスは、携帯を見ながらも不自然なにやけ顔を必死に隠す。
おいおいちょっと待てよ……。こんなんじゃ仕事どころじゃねぇぞ……! ってか「この後お茶しませんか?」なんて声かけられたらどうするよ? 断るの? ねぇ、断れるの? つーか断るわけないじゃん! 行くよ! 行く行く~!
サイコパスは、もはや携帯の画面が真っ暗なことに気がついていない。
そうだな~。まずは遊園地。いやいや、初デートは映画館で決まりでしょ。でもどうする。何観る? ホラーで吊り橋効果期待する? ラブコメディで急接近!? そうだな~、何でもいいかな。大きなポップコーン抱えて一緒に食べよー。
サイコパスは、すでに降りる駅を通り過ぎている。
ひょっとしたら……このまま結婚ってことも考えられるな。俺もいい年だし、結婚したくないわけじゃないし、でもいきなりそんなこと……。意外とありだな。
おいおい。子供の名前、どうするよ……?
男の子? 女の子? キラキラネームにする? マジかよ~、考えさせてくれよ~。
サイコパスは、生まれてくる子供の顔を想像したく、もう一度向かいの女性に目を向けた。
……うん。全然かわいくないじゃん。
何だったんだよ。この時間。冷めたわ……。
殺すぞ!
サイコパスは、かわいい子が好き。
LXXXI. 抉殺
サイコパスは、……。
憎しみ、怒り、愛。
行き先は、冷酷。
人は人を憎み、憎んだ記憶は忘却できない。憎しみは些細なことで掘り起こされ、怒りはすぐさま沸点に達する。
愛せば愛すほどに、愛は愛を歪ませる。
歪んだ感情はまっすぐに突き進む。どんなに固い壁も、どんなに高い壁も、あらゆる壁でも止められない猪突猛進に、歪みは冷酷さを生み出す。
心を裂かれた彼もまた、その心のうちに冷酷さを生み出した。
右手にナイフを、左手にナイフを、突き刺し切り裂き抉り出す。同じように同じように、同じように、彼女を、同じように。
愛した彼女を憎み、怒り、また愛した。何度も何度もいつだって、彼女を愛して憎み、怒りに愛した。
突き刺し切り裂き抉り出す。突き刺し切り裂き抉り出す。
切り裂かれた心を慰めるように、彼女の心も同じように切り裂く。
そうでもしないと、心を平常に保てない。
憎しみ、怒り、愛は冷酷に、突き刺し、切り裂き、抉り出す。
サイコパスは、……。
LXXX. 殺人 ⑧
朝の陽ざしに心躍り、全身が汗ばむほどがむしゃらに走る。公園を駆け抜け、海沿いの砂浜を蹴り、近くのカフェで飲む一杯のコーヒーが喉を潤す。
息が上がりながらも、店員の眩しい笑顔に癒されながら、疾走感と清涼感、悪いものが体からすべて流れ出るようなデトックスが心地よい。
「コーヒーのお替りいかがですか?」
「ありがとう。いただくよ」
太陽と勝負をするように早起きをして、何も考えずに体を動かす。気の向くまま、自然に身を委ね、風に吹かれるのがどうしてこんなにも気持ちがいいのだろうか。運動をした後の朝食はなぜこんなにも美味しいのだろうか。
「今日も天気がいいですね」
彼女が微笑んだ。その笑顔で、コーヒーは何倍も美味しくなる。
「そうだね。今日も気持ちのいい朝だよね」
僕はついつい嬉しくなり、何度も考えていた気持ちを声にしてみる。
「ねぇ、サキさん。お仕事ってもうすぐ終わりでしょ?」
「えぇ。そうですよ」
「予定とかあるんですか?」
一瞬考え込むように、瞳を左右に動かす。そして彼女は答えた。
「今のところないです。でもこんな天気だと、海辺でゆっくり過ごしたいものです」
にこやかにそう話す彼女は、お日様よりも眩しく、何よりも美しかった。
「だったら、この後一緒にどうです? 海、行きましょうよ」
言葉を発した途端によぎる不安。断られかもしれないと思った。だがそれは、いらぬ心配だったよう。柔らかく動いた彼女の表情が、僕を安心させた。
「ええ。ぜひ」
サイコパスは、今日も元気だ。