CVII. 零れ落ちる鱗
サイコパスは、世界が変わる瞬間に立ち会った。
今まで映ることのなかった景色が目の前に広がり、近くのものはもちろんのこと、遠くに立ち並ぶ山のシルエットさえもよく見える。
美しい……!
サイコパスは、涙を零した。
こんなにも世界が美しかったなんて……。
こんなにも美しい世界が存在していたとは露知らず、私の目はいつでも、曇っていた。
右も左もわからない未熟者で、上も下も見極められない愚か者だった。
困惑の表情を浮かべて「わかりません」と答える毎日。その相手をする者はいつだって「そうですか」と失望していた。
私は……心底、惨めだった。
そんな自分が嫌だった。
だが今は、この美しい世界を見ることができている。
あの頃の自分に戻ることはもうない。戻る必要なんてない。
今はもう、見えているんだ!
この目に、この瞳にぴったりとフィットし、もう2度と離さないとばかりに……。
サイコパスは、自分の肩に触れる誰かの手を払いのけた。
誰にも邪魔はさせない……! 誰にも、奪わせやしない!
何日だって、何週間だって、何年だって……いつまでもここで美しい景色を見ていたい!
この景色は、この美しい景色はすべて自分のもの。
……失いたくない!
しかし急に……
唐突に目が痛くなる。
あれ……どうしたんだろう?
景色がぼやけてくる……。痛い……。
美しい世界は……どこへ行ってしまったの……?
サイコパスは、瞳から零れ落ちる鱗に涙した。
再び、肩に誰かの手が触れる。
やめてくれ! ほっといてくれ!
どこ……!? どこにいったの……!?
美しい……景色が見えないよ……
すると、再度手が肩に触れた。今度は、しっかりと。
「お客様! お使いのコンタクトは1dayですから……!」
CVI. 「殺す」で溢れかえる街
「あいつゼッテェ殺してやる!!」
最近の若者は、すぐキレる。
いや、最近でなくとも、すぐキレる若者はいる。昔だっていた。
だが昔は、簡単に「殺す」と口に出す若者はそういなかった。
今は、そうじゃない。何か不満なことがあれば簡単に「殺す」と口に出す。
それはきっと、良いことじゃないだろう。
それはきっと、良くないことだ。
サイコパスは、街の中で若者の声を聞いた。
聞こえてくる声は、やはり「殺す」ばっか。
コンビニの駐車場。裏路地の片隅。学校の教室、部室、トイレの中からも。
怒号を伴った「殺す」、軽い冗談の「殺す」、へらへらしながらの「殺す」、様々な「殺す」が、あちこちから聞こえてくる。
…………。
そんな街は、きっと良くない場所だ。
まるで相槌のように、「殺す」、「殺す」と口に出す若者。
それを聞く大人たちも、不快な気持ちを覚えるだけで何もせず。
次第に街は「殺す」で溢れかえり、小さな子供たちは当たり前のように「殺す」の環境で育っていく。
それはきっと、良くない。
サイコパスは、「殺す」と口にする人間に侮蔑の視線を注いだ。
不愉快で仕方ない。
虫唾が走る。
苛立ち、怒りが沸点を通り越し、殺したくなる。
でもそれを、口に出すことはない。
サイコパスは、静かにほくそ笑んだのだ。
…………。
そうか……そうだよな。
現代の、「殺す」で溢れかえった街。
そこは、「殺す」の名のもとに治安が悪く、息苦しい。
でもそれは、生ぬるい安心・安全の証明でもあった。
人は、本当に誰かを殺したいとき、「殺す」など口にしない。
人の怒り、憎しみが膨らむと、声にならないほど絶大な力が動き出す。それが狂気であり、本当の意味での殺意である。
だからこそ、簡単に口に出る「殺す」の言葉にはどんな殺意も含まれず、人を殺すこともない。
突発的に爆発した殺意は、言葉を持たないのだ。
簡単に「殺す」と口にする若者は本当の意味での憎しみを抱えてはいない。ましてや、人を殺す覚悟などさらさらない。
一度も人を殺したことのない、人を殺すことがどんな意味を持つかも分かっていない純粋な人間。それが、現代の若者の実態である。
サイコパスは、そのことを思い出し、胸を撫で下ろした。
むしろ、良いことなのかもしれない。
若者が「殺す」と口にする街は、確かに不愉快ではある。でもそれは、安全な証拠。そう考えれば、多少の「殺す」も仕方のないことだと看過できる。
殺意の意味を知ってしまった若者が溢れかえるよりはずっといい。
虚勢を張った「殺す」を吐く若者たちは、ずっと可愛いものだ。その瞳には、幾分の狂気も含まれていない。あるのは、粗末な怒り。中身のない、憎しみだけだ。そんな見せかけの「殺す」に、街は安らぎの心を覚える。
口の悪い若者で溢れかえる街。
そこから聞こえてくる「殺す」の言葉。
それは、暴力性を言葉で表す平和な街であった。
CV. 尊殺
サイコパスは、……。
自尊心を傷つけることが何よりも有効な殺害方法だと知っていた。
生まれ出でて此の方、言い寄ってくる男に困ったことはない。だからこそ、男を傷つけることがどんなに楽しいかを知ってしまった。
女は創られた遺伝子に写っていた情報に従っただけ。
自信ありげな男の、満足げな男の、優越感に浸る男の潰れる顔が見たかっただけ。そこのシーンにだけ、本当の意味での快感が存在した。
甘い言葉で信じ込ませ、裏切り、涙を零し、また裏切る。心底信じ切った男ほど、裏切る快感が至極の悦びだった。「好きだよ」なんて誰でも誰にでも言える安い言葉に溺れていると勘違いしている男の苦悶の表情は、甘いスイーツを食べる感覚に等しく、周りが見えなくなるほど夢中になった挙句に怒り狂った男は、哀れすぎて笑えてしまった。
あなたのものじゃないと気づいたとき、絶望を感じた男は心が死んだ。
虚ろな瞳で空を見る。
何も手につかず廃人と化す。
もう二度と人を信じることができなくなる。
そうなった男たちを見ていると、女は純粋に気持ちよかった。
サイコパスは、……。