LXXII. まだ、死ぬな。
サイコパスは考えた。
自殺することについて考えた。
人は皆、知らずのうちにこの世に生を受け、勝手に死のうと考える。
面白くない。落胆。がっかり。悲しみ。絶望。
自分の人生において、一瞬でもそのような感情を抱くと、人はどうしてか、死ぬことを考える。
なぜだろう……。人はなぜ、命を捨てようと思うのだろう……。
死後の世界。
仮に、そんな世界があると考えよう。
死後の世界と、今生きるこの世界。
どちらの方が住みやすいのだろう……。生きやすいのだろう……。
サイコパスは、答えに迷った。
死後の世界?
なんだ……それ?
目に見えず、その手を伸ばしたこともない未知なる世界。
『死後』と言うだけあって、おそらくは死んだ人間が向かう世界なのだろうか。
それ以外、明白なことは分からない。
それでも、人はその世界に行きたがる。あるかどうかも分からない死後の世界へと、足を踏み入れたくなる。
サイコパスは、自殺志願者を考えた。
この世界から死後の世界へと向かいたいと考える場合、人は少なくとも、この世界において苦しみを感じている。
恋人にフラれて、胸が苦しい。
会社の残業が多くて、体力的に苦しい。
イジメ、ハラスメントで、心が苦しい。
人は皆、苦しみを背負って自殺する。
サイコパスは、その考え方が分からない。
苦しくて死ぬ……?
つまりは、快楽を求めてこの世界を去るということなのか……?
だとしたら、死後の世界は、一片の苦しみもないということ……?
人は、死後の世界に『安』・『楽』というものを想像し、そこへと向かいたがるのか。
サイコパスは、ますます分からなくなった。
そのイメージが正しいというのであれば、死後の世界が本当に安らかで、楽に生きられるという保証があるのならば、こぞって人は死を選ぼう。
だがしかし、そのイメージが間違っていたならば、後悔することになる。
死後の世界に待ち受けるものが、今生きるこの世界よりも辛い苦しみだけならば、人はそこで、心が軋む思いをしなければならない。
未知なる世界が未知なる苦しみの塊に過ぎなければ、人は皆、死ぬことなんて選ばない。たとえ苦しくても、人生が嫌になるほどキツくても、私ならこの世界で生きることを選ぼう。
サイコパスは、自殺について結論を出した。
今、君が、苦しい思いに駆られていても、決して死んではならない。
死ぬな! と無責任に言うつもりはないのだが……よく考えろ。
少しでいいから、死ぬ前に考えろ。
屋上に立っている君が、駅のホームで一歩前へと進みだそうとしている君が、縄に首を括る寸前の君が、考えるべきことは……死後の世界である。
死後の世界が如何なるものなのか、その全貌が分かるまで、その世界に手を伸ばしてはならない。
暗く、深い、苦しみに飲み込まれるかもしれない死後の世界。
そこに行ってしまっては、君はより一層不幸になる。
今生きるこの世界の方がよっぽどマシだと、思えるかもしれない。そのことに目を向けず、あちら側に行っては、後悔しても二度と戻れない。
自殺を考えるほどの苦しみに苛まれている君だからこそ、私は警告したい。
大丈夫だ……。
今辛くても、嬉しいことや楽しいこと、生きていてよかったと思える出来事が、この世界には秘められている。
大丈夫だ……。強くあれ。
サイコパスは、思う。
まだ、死ぬな。
LXXI. ヒューマン・アート
サイコパスは、大学を卒業した。
生まれつき常人よりも高い知能が備わっていたため、大学に入ることは元より卒業することも容易かった。
でもそんな僕にも一つだけ悩みがあった。
それは……自分がやりたい仕事が何なのか見つけることができなかったということだ。
サイコパスは、悩みに悩んだ。
大学生の時、就活のことはもちろん考えた。
公務員になれば将来安泰なのは分かっていたし、企業に就職することを考えると自分の実力ならばどこへでも入れる自信もあった。
でも自分のやりたいことが分からず、結局最後まで決まらなかった。
勉強はできるが、やりたいことが分からない。これほどの悩みを今まで持ったことがあろうか……。
頭を抱えるほど悩んで、意味もなく街を徘徊していたそんな時、ある画廊に足を踏み入れた。今考えると、なんでそんな場所に行ったのかよく分からないが、おそらく運命だったのだと何となく感じる。
美術品になど何の関心も持たなかったのだが、そこで初めて見た一枚の絵によって僕の考え方はガラリと変わった。
今でも忘れぬあの衝撃。
たかが紙の上に書かれた、ただの絵なのに、それはまるで生きているかのような印象を僕に与えた。
今まで感じたことのない感覚。
表現するのが難しいが、心に激震が走ったとでも言おう。ゾクゾクと踊りだすように血が沸騰し、その熱で皮膚が泡立ったのかと錯覚するほどだった。
サイコパスは、悩みが吹き飛ぶほどアート作品に心を奪われた。
そして僕は決めたんだ。
衝撃を受けたこの絵のような、アート作品を手がける会社を起業しようと。
そしてしばらくしてから、僕は堂々と胸を張って仕事のできる会社『ヒューマン・アート』を設立し、その会社の代表取締役となった。
創造性と芸術性に富んだアート作品。『生きているアート作品』がわが社の売りだ。
サイコパスは、自分のやりたいことを遂に見つけた。
LXX. 殺人 ⑦
サイコパスは、考えていた。
というよりも……
サイコパスは、思い出そうとしていた。
僕の殺した彼女が、どんな女性だったかを。
突発的に殺し、死体の処理に困った僕は、解体して骨のネックレスを作ったり、その肉を散々食らったりした。脂肪、血、肉、骨……彼女のことを思い出しながら、僕は彼女と一つになろうと努力した。
でも……だめだ。
サイコパスは、部屋の片隅で泣いている。
思い出せないんだ。
……綺麗だった彼女の声が。
思い出せないんだ。
……愛おしかった彼女の癖が。
思い出せないんだ。
……寒い日に寄り添った彼女のぬくもりが。
思い出せないんだ。
……笑顔が。僕の一番好きだった……彼女の眩しい笑顔が。
サイコパスは、頭がおかしくなってしまったのだろうか。
心から愛する女性に自ら手をかけ、死んでもなお彼女と一緒にいたいと願った。殺した理由はどうでもいい。好きだからいまだ一緒にいる。
でもどうしてか、彼女が遠くいるように感じてしまうんだ。
首に提げるネックレスも、胃の中に納まる肉も、彼女だ。彼女なのに、僕はどうしてか苦しい。前よりも一緒にいる時間が長いのに、嬉しくない。苦しくて仕方ない。
ねぇ、どうして? 聞こえているなら応えてくれ……!
サイコパスは、宙に向かって言葉を放った。
だが返ってくるのは、壁に跳ね返った自分の声だ。
涙声のかすれた声が、真夜中に響く。それを聞いて、虚しくなる。
彼女との記憶はもはや、一片もなく消え去った。
彼女との別れを余儀なくされた。でも僕は……もういい。
サイコパスは、どんな女性だったか思い出せなくなった彼女の幸せを願うだけだ。
考えたくない。考えられない。彼女との別れ。
考えたくない。考えられない。彼女は僕の、何だったのだろう。
考えたくない。考えられない。考えたく……ない。